テヘランに向かう飛行機がヤズド空港に到着した。待合室から見える滑走路の周囲には雪が見えている。出張でヤズドに来ていた平山辰夫は、とっくにチェックインを済ませて、秘書のアツーサと一緒に帰りの飛行機を待っていた。飛行機の乗客が降りてしばらくするとアナウンスがあった。平山にはペルシャ語は分からない。
「アツーサ、何てアナウンスだったの?」
「飛行機に故障がみつかったと言っています」
「そう?それで直るのかな?」
「今、修理しています」
「どこの故障だろうねぇ?」
「エンジンみたいです」
「そうか、エンジンの故障というのは重大だね。気がつかないで飛んでいたら問題だったね」
平山とアツーサは、冗談などを言いながら待合室でそのまま待ち続けた。とっくに搭乗時刻になったにも拘わらず、搭乗のアナウンスはない。待合室から故障した飛行機が見える。修理用の自動車なのだろう、パンタグラフのようなものが伸びてエンジンにエンジニアが届くようにしている。
再びアナウンスがあった。そして急に待合室にいた乗客たちがざわめき始めた。
「今度のアナウンスは、何だって?」
「エンジンが直らないので欠航にするということでした」
「え!じゃぁ、次の飛行機のチケットに変更しないと」
「はい、行って来ます」
アツーサは、平山のチケットを持ってチケットカウンターの方に向かった。しかし、平山たちと同じように待合室で待っていたイラン人のアクションは早かったようだ。カウンターに向かった人、さっさと飛行場から出て行く人、さまざまであった。しばらくして、アツーサが戻って来た。
「どの飛行機も満席で明日まで空席はないそうです」
「そう、それは困ったね」
平山の台詞には少し実感がなかった。単身赴任でイランに来ている平山だから、帰りが延びてもあまり影響はないのだ。しかし、アツーサは違った。まだ2歳にもならない子供がいるので、1泊の出張でも大変だったのだ。1泊はご主人の協力を得ての出張できたが、2泊という訳にはいかない。
「アツーサ、なら、タクシーでテヘランまで帰ろうか?」
「テヘランまで行ってくれるタクシーなんてありません」
「そっか、なら、近くの町まで行って、そこからまた別なタクシーというのは?」
「そこでタクシーがみつからなければ、動きがとれなくなります」
「そっか、確かに・・・」
飛行場にはもう人影が少なくなっていた。キャンセル待ちを期待して飛行場に残る人もいるが、諦めて飛行場から出て行った人が多いのだ。アツーサは必死でテヘランに帰る方法を考えていたようだが、携帯電話で話をした後、言った。
「仕方がありません。明日まで待つことにします」
「そっか、ご主人、大変だね」
「ええ、でも、親戚が助けてくれますから、大丈夫です」
「なるほど、いざとなると親戚が助けてくれるんだ。イラン人には100人も親戚がいるからいいね」
「テヘランには少ししかいませんけどね」
平山とアツーサは、飛行場からタクシーに乗ってヤズドの町に引き返した。
平山は飛行機の欠航のせいで市内のホテルが満室ではないかと心配したが、それは杞憂であった。チェックアウトしたホテルに戻ると、あっさりと宿泊することができた。飛行機の乗り損なったイラン人はホテルではなくてヤズドの親類の家に宿泊するのだろうと思った。
平山にとって今回のヤズド出張は初めてではなかった。半年前に一回、日帰りだったが、来たことがあった。そのときに市内を視察し、このホテルをみつけたのだった。アツーサも興味を示したので、次回の出張のときには是非そこに泊まろうと決めていたのだった。このホテルは、一般の住宅を改造してホテルにしたものだった。
一般の住宅と言っても、ホテルに改造できるくらいだから、元富豪の家である。巨大な家であるため、博物館にするかホテルに改造するかしかないという代物である。平山にとっては、イラン人のお金持ちの家を知ることができるので、興味津々というところであった。
チェックインを済ませると、夕食までにはまだ時間があったので、平山はアツーサと観光に出掛けることにした。ヤズドが拝火教の総本山のような場所であるということは平山も知っていたが、出張で来ているため観光する時間はなかった。アツーサもそこを見るのは初めてのようだった。
「アツーサ、その拝火教の寺院のこと、ペルシャ語では何て呼ぶの?」
「アーテシュキャデといいます」
「ん?アターシュって火の意味だったような?」
「そうです、よく覚えましたね」
「ペルシャ語は難しくて覚えられないけど、少しは覚えているよ」
平山はイラン人秘書のアツーサをいつも同行して仕事をしているので、挨拶以外ほとんどペルシャ語を覚える必要がなかった。イランにいてもペルシャ語を使わないのでは覚えられるはずがない。しかも、意味のないただのカタカナの集まりのような単語を覚えることは苦痛以外の何ものでもなかったのだ。
目的地に着くと、平山はがっかりした。寺院と言われる建物が新しくて、予想していた荘厳さというものが全然なかったからだ。エスファハンには荘厳で精緻な仕上げのモスクがあり、それよりも古い歴史を持つ拝火教の寺院というのだから、平山でなくとも期待したくなるのも当然であろう。
「アツーサ、イランには今でも拝火教に起因するものが残っているけど、日本にも同じようなものがあるんだ」
「え?」
「日本では、お盆という先祖を祭る期間があって、そこには迎え火とか送り火とかがあるんだ」
「それって拝火教の影響でしょうか?」
「うん、そうらしいよ。ペルシャと日本とは古い時代からつながっているらしい」
平山は、拝火教の寺院に一応仏教徒である自分が中に入れるかどうか気になったが、今では異教徒にも施設は開放されていた。施設の中は、平山の予想したよりも小さかった。中央にガラス窓があり、その奥で小さな火が燃えていた。訪問者は、平山たち以外には外国人のバックパッカーが二人いるだけである。
平山が説明文を読むと、小さな火は1600年近く燃え続けているとあった。24時間、薪を切らさずに補給し続けているなんて信じられないような気がした。アツーサによると、ヤズドの町には今でも多くの拝火教の信者が住んでいるという。イスラム教シーア派の国イランにおいて、拝火教の信者が存在しているということも興味深いものであった。
(参考)ヤズドにある拝火教寺院
平山たちは拝火教の寺院を出たが、外はまだ明るかった。そこで、彼らは拝火教で死者を弔うという鳥葬の塔、別名で沈黙の塔という場所に行ってみることにした。拝火教の寺院の前で拾ったタクシーの運転手は、イラン人らしく愛想が良かった。平山は、一緒に仕事をしているイラン人のマジディ部長の言葉を思い出していた。ヤズドには犯罪者がいないという。
マジディ部長によると、7世紀の頃、マホメットに率いられたアラビア人の軍がペルシャを攻めて、住民に対して、イスラム教に改宗するか、巨額の金を払うか、戦争するかと迫ったという。ヤズドの拝火教の人々はどうしたのだろうかと平山は不思議に思った。
ペルシャにいた拝火教の信者たちはアラビア軍から逃れ、今ではインドに拝火教の総本山があるという。ヤズドの拝火教の信者たちは、一旦逃げて、ほとぼりがさめた頃、舞い戻ったのかも知れない、平山はそう考えた。イラン人は原則としてイスラム教徒であるが、既得権は認められている。したがって、イランにはアルメニア人のようなキリスト教徒もいるし、ユダヤ教徒もいるという。
タクシーは樹木のない荒野を抜け、鳥葬の塔のある場所についた。平山には、鳥葬の塔は直ぐに分かった。小さな岩山を利用したもののようだが、頂上に塔のようなものが見られたのである。そして、岩山の周囲にはぐるりと回るような小道が見えた。
岩山の小道は、舗装などない石ころだらけの道であった。日没にはまだ時間がありそうだったので、平山は頂上まで登る気になった。しかし、女性のアツーサはどうだろう。
「どう、登る?」
「はい、もちろん」
「歩きにくいよ」
「大丈夫」
アツーサの好奇心は相当強いらしいと平山は思った。タクシーの運転手は、ニコニコしながら車のところで待っていると言う。平山たちは、岩山を登り始めた。遠目では、なだらかに見えた小道であったが、かなり傾斜があり、小石のために滑りやすい。アツーサは、それでも一歩一歩登って来た。
急傾斜のせいか、平山は息切れがした。後方にいるアツーサを見るとかなり遅れていた。それでも、彼女は登ってくる。雲ひとつない空、明るい太陽が地平線に近くなっていた。ヤズドの町に灯りが点き始めた。
平山が頂上に着くと、塔への入り口は小さく、大きな段差があった。平山は、その一段目に立てば塔内は見渡せるから、そこでアツーサは諦めることだろうと思い、一人でその入り口を登って行った。塔の中央には、クレーターのような窪みがあって、そこで死者を弔ったと思われた。鳥葬は今では行われていないので、人骨などが残っているとは思われない。
拝火教と鳥葬、その関係について平山には見当もつかなかったが、死者を空に帰すというのはなんとなく理解できるような気がした。実際は、死体が鳥によってあちこちにばら撒かれるだけなのだろうが、鳥によって空に運ばれていったというイメージは持てると思えるのだ。
平山がそんなことを考えながらしげしげと鳥葬の穴を見ていると、アツーサがやって来た。
「え!あの段差を登って来たの?」
「はい、あのくらい何でもありません」
「いやぁ、驚いたなぁ、てっきりあそこで諦めるだろうと思っていた」
「いいえ」
平山は、それなら手を貸してあげればよかったと後悔したが、アツーサは何とも思っていないようであった。
「イランにも幽霊っているの?」
「はい、いますよ」
「アツーサは怖くないの?」
「まだ見たことがありません。墓地にいるそうです」
「へぇ、でも、ペルシャ語で話をされても私には分からないから怖くないだろうなぁ」
鳥葬の塔は墓地ではないからか、アツーサはまったく怖がっていなかった。そうしているうちに、日は沈み、辺りがすっかり暗くなって来た。鳥葬の塔からヤズドの町の灯りが綺麗に見えた。
(参考)鳥葬の塔
平山がヤズドから戻って1か月もした頃、岡野邦彦が日本から赴任して来た。平山はイランに来て既に1年という経験を持っていることから、岡野の面倒をみる立場であった。アパート探しや銀行での現金の出し入れ、ショッピングに至るまでいろいろな情報を提供しなければならない。
平山は、週末になって岡野の歓迎パーティをアパートでやることにした。参加者は、岡野以外には5名の仲間であった。本部から来ている調整員の中田氏、平山と一緒に赴任した広井氏、家族で赴任している加藤氏とその奥様である。平山は、スリランカ人の使用人を雇っていた。パーティは、その使用人の用意する料理であった。
日本人の主催するこういうパーティの始まりは早い。平山は、6時に開始というお知らせを流しておいた。そして、日本人参加者は10分と遅れないものとしたものである。平山は、アツーサに5時半に来るように伝えておいた。迎える側の人は、先に来ていないと具合が悪いという理由である。
アツーサは日本人の時間に厳しいということを既に知っているため、ちゃんと5時半に平山のアパートに現れた。アパートに入ると、直ぐにコートとヘジャブを脱いだ。髪は黒髪ではなく、メッシュ入りの明るい茶色に染められている。彼女の衣装はプライベートな集まりのせいで、はっとするほど素敵なものだった。
そして、その10分後に広井氏がやって来た。イラン人の場合、こういうパーティでは2時間くらい遅れるのは何でもなく、定刻に現れる人はまずいない。ましてや定刻よりも前に現れるというのは異常である。広井氏は、迎えに出たアツーサを見て少し驚いたような表情をみせた。
アツーサは日本語が分からないため会話は英語にならざるを得ない。その後、参加者たちは続々とやって来て、6時には全員が揃っていた。平山は、イラン人のアツーサの目には、こういう日本人の行動はとても奇妙に映ることだろうと思った。
禁酒国のイランではあるが、アルコール類が手に入らない訳ではない。ちゃんとブラックマーケットがあって、ビールやウイスキーは買えるのだ。ただし、値段は日本の三倍もするので、高級なウイスキーなどは手が出ないのが実態である。もっとも、高級なウイスキーなどはいつもある訳ではないので、買いたくても買えないし、安物のスコッチで我慢するしかない。
参加者たちは、それぞれに努力してアルコール類を手に入れているらしく、岡野以外はいろいろな酒類を持参していた。食事は7時頃と使用人に言ってあったので、みんなはリビングでくつろいでいた。平山が席につくと岡野が言った。
「平山さん、いろいろお世話になってありがとうございます」
「いえいえ、早くテヘランでの生活に慣れるといいですね」
「はい、あとはアパートの契約だけになりました」
「そう、いい大家さんだったらいいけどね」
「永井さんの引継ぎですから大丈夫だと思います」
「ああ、帰国した永井さんのところね」
平山は自分がイランに赴任したときのことを思い出さずにはいられなかった。雪の降る日の赴任だった。イランに雪が降るなんて事前に調べるまでは想像もできなかったのだ。今は、もう3月である。街から雪は消え、春を待っているところである。
「この時期の赴任というのは珍しいね。もう直ぐノールーズに入るのに」と中田調整員が言った。
「ノールーズって何ですか?」と岡野が訊いた。
「あれ?知らなかったの?イラン暦のお正月休みのことです」
「長い休みなんでしょうか?」
「役所は1週間程度だけど、みんな有給休暇を消化したりして、1か月くらい休暇を取る人が多いですよ」
「3月に入ると、1か月くらいは仕事にならないかも」
ビールを飲みながら、イラン人の習慣や国民性についてそれぞれが思い思いのことを言っている。加藤さんの奥様は、バザールでぼられるということに腹を立てていた。話を聞くと、ぼられたと言っても、それほどの金額ではないのだが、主婦としては気になることのようだった。野菜などの食材は日本の値段の7分の1だから、ほとんど無料に近いと平山は感じていた。だから、普通のショッピングは、使用人に任せているのである。
ただし、日本食材となると話は違う。買うことができるとはいえ、日本で買う値段の3倍から5倍もするのである。ごく普通の3パック入りの納豆が500円、カップヌードルも一個500円もする。こういう買い物は、平山は自分でやり、使用人は日本食材には手をつけないことになっている。
(参考)テヘランの日本食材のお店
(つづく)
(注)こちらはフィクションですから人名など実在するものとは一切関係ありません。
「アツーサ、何てアナウンスだったの?」
「飛行機に故障がみつかったと言っています」
「そう?それで直るのかな?」
「今、修理しています」
「どこの故障だろうねぇ?」
「エンジンみたいです」
「そうか、エンジンの故障というのは重大だね。気がつかないで飛んでいたら問題だったね」
平山とアツーサは、冗談などを言いながら待合室でそのまま待ち続けた。とっくに搭乗時刻になったにも拘わらず、搭乗のアナウンスはない。待合室から故障した飛行機が見える。修理用の自動車なのだろう、パンタグラフのようなものが伸びてエンジンにエンジニアが届くようにしている。
再びアナウンスがあった。そして急に待合室にいた乗客たちがざわめき始めた。
「今度のアナウンスは、何だって?」
「エンジンが直らないので欠航にするということでした」
「え!じゃぁ、次の飛行機のチケットに変更しないと」
「はい、行って来ます」
アツーサは、平山のチケットを持ってチケットカウンターの方に向かった。しかし、平山たちと同じように待合室で待っていたイラン人のアクションは早かったようだ。カウンターに向かった人、さっさと飛行場から出て行く人、さまざまであった。しばらくして、アツーサが戻って来た。
「どの飛行機も満席で明日まで空席はないそうです」
「そう、それは困ったね」
平山の台詞には少し実感がなかった。単身赴任でイランに来ている平山だから、帰りが延びてもあまり影響はないのだ。しかし、アツーサは違った。まだ2歳にもならない子供がいるので、1泊の出張でも大変だったのだ。1泊はご主人の協力を得ての出張できたが、2泊という訳にはいかない。
「アツーサ、なら、タクシーでテヘランまで帰ろうか?」
「テヘランまで行ってくれるタクシーなんてありません」
「そっか、なら、近くの町まで行って、そこからまた別なタクシーというのは?」
「そこでタクシーがみつからなければ、動きがとれなくなります」
「そっか、確かに・・・」
飛行場にはもう人影が少なくなっていた。キャンセル待ちを期待して飛行場に残る人もいるが、諦めて飛行場から出て行った人が多いのだ。アツーサは必死でテヘランに帰る方法を考えていたようだが、携帯電話で話をした後、言った。
「仕方がありません。明日まで待つことにします」
「そっか、ご主人、大変だね」
「ええ、でも、親戚が助けてくれますから、大丈夫です」
「なるほど、いざとなると親戚が助けてくれるんだ。イラン人には100人も親戚がいるからいいね」
「テヘランには少ししかいませんけどね」
平山とアツーサは、飛行場からタクシーに乗ってヤズドの町に引き返した。
平山は飛行機の欠航のせいで市内のホテルが満室ではないかと心配したが、それは杞憂であった。チェックアウトしたホテルに戻ると、あっさりと宿泊することができた。飛行機の乗り損なったイラン人はホテルではなくてヤズドの親類の家に宿泊するのだろうと思った。
平山にとって今回のヤズド出張は初めてではなかった。半年前に一回、日帰りだったが、来たことがあった。そのときに市内を視察し、このホテルをみつけたのだった。アツーサも興味を示したので、次回の出張のときには是非そこに泊まろうと決めていたのだった。このホテルは、一般の住宅を改造してホテルにしたものだった。
一般の住宅と言っても、ホテルに改造できるくらいだから、元富豪の家である。巨大な家であるため、博物館にするかホテルに改造するかしかないという代物である。平山にとっては、イラン人のお金持ちの家を知ることができるので、興味津々というところであった。
チェックインを済ませると、夕食までにはまだ時間があったので、平山はアツーサと観光に出掛けることにした。ヤズドが拝火教の総本山のような場所であるということは平山も知っていたが、出張で来ているため観光する時間はなかった。アツーサもそこを見るのは初めてのようだった。
「アツーサ、その拝火教の寺院のこと、ペルシャ語では何て呼ぶの?」
「アーテシュキャデといいます」
「ん?アターシュって火の意味だったような?」
「そうです、よく覚えましたね」
「ペルシャ語は難しくて覚えられないけど、少しは覚えているよ」
平山はイラン人秘書のアツーサをいつも同行して仕事をしているので、挨拶以外ほとんどペルシャ語を覚える必要がなかった。イランにいてもペルシャ語を使わないのでは覚えられるはずがない。しかも、意味のないただのカタカナの集まりのような単語を覚えることは苦痛以外の何ものでもなかったのだ。
目的地に着くと、平山はがっかりした。寺院と言われる建物が新しくて、予想していた荘厳さというものが全然なかったからだ。エスファハンには荘厳で精緻な仕上げのモスクがあり、それよりも古い歴史を持つ拝火教の寺院というのだから、平山でなくとも期待したくなるのも当然であろう。
「アツーサ、イランには今でも拝火教に起因するものが残っているけど、日本にも同じようなものがあるんだ」
「え?」
「日本では、お盆という先祖を祭る期間があって、そこには迎え火とか送り火とかがあるんだ」
「それって拝火教の影響でしょうか?」
「うん、そうらしいよ。ペルシャと日本とは古い時代からつながっているらしい」
平山は、拝火教の寺院に一応仏教徒である自分が中に入れるかどうか気になったが、今では異教徒にも施設は開放されていた。施設の中は、平山の予想したよりも小さかった。中央にガラス窓があり、その奥で小さな火が燃えていた。訪問者は、平山たち以外には外国人のバックパッカーが二人いるだけである。
平山が説明文を読むと、小さな火は1600年近く燃え続けているとあった。24時間、薪を切らさずに補給し続けているなんて信じられないような気がした。アツーサによると、ヤズドの町には今でも多くの拝火教の信者が住んでいるという。イスラム教シーア派の国イランにおいて、拝火教の信者が存在しているということも興味深いものであった。
(参考)ヤズドにある拝火教寺院
平山たちは拝火教の寺院を出たが、外はまだ明るかった。そこで、彼らは拝火教で死者を弔うという鳥葬の塔、別名で沈黙の塔という場所に行ってみることにした。拝火教の寺院の前で拾ったタクシーの運転手は、イラン人らしく愛想が良かった。平山は、一緒に仕事をしているイラン人のマジディ部長の言葉を思い出していた。ヤズドには犯罪者がいないという。
マジディ部長によると、7世紀の頃、マホメットに率いられたアラビア人の軍がペルシャを攻めて、住民に対して、イスラム教に改宗するか、巨額の金を払うか、戦争するかと迫ったという。ヤズドの拝火教の人々はどうしたのだろうかと平山は不思議に思った。
ペルシャにいた拝火教の信者たちはアラビア軍から逃れ、今ではインドに拝火教の総本山があるという。ヤズドの拝火教の信者たちは、一旦逃げて、ほとぼりがさめた頃、舞い戻ったのかも知れない、平山はそう考えた。イラン人は原則としてイスラム教徒であるが、既得権は認められている。したがって、イランにはアルメニア人のようなキリスト教徒もいるし、ユダヤ教徒もいるという。
タクシーは樹木のない荒野を抜け、鳥葬の塔のある場所についた。平山には、鳥葬の塔は直ぐに分かった。小さな岩山を利用したもののようだが、頂上に塔のようなものが見られたのである。そして、岩山の周囲にはぐるりと回るような小道が見えた。
岩山の小道は、舗装などない石ころだらけの道であった。日没にはまだ時間がありそうだったので、平山は頂上まで登る気になった。しかし、女性のアツーサはどうだろう。
「どう、登る?」
「はい、もちろん」
「歩きにくいよ」
「大丈夫」
アツーサの好奇心は相当強いらしいと平山は思った。タクシーの運転手は、ニコニコしながら車のところで待っていると言う。平山たちは、岩山を登り始めた。遠目では、なだらかに見えた小道であったが、かなり傾斜があり、小石のために滑りやすい。アツーサは、それでも一歩一歩登って来た。
急傾斜のせいか、平山は息切れがした。後方にいるアツーサを見るとかなり遅れていた。それでも、彼女は登ってくる。雲ひとつない空、明るい太陽が地平線に近くなっていた。ヤズドの町に灯りが点き始めた。
平山が頂上に着くと、塔への入り口は小さく、大きな段差があった。平山は、その一段目に立てば塔内は見渡せるから、そこでアツーサは諦めることだろうと思い、一人でその入り口を登って行った。塔の中央には、クレーターのような窪みがあって、そこで死者を弔ったと思われた。鳥葬は今では行われていないので、人骨などが残っているとは思われない。
拝火教と鳥葬、その関係について平山には見当もつかなかったが、死者を空に帰すというのはなんとなく理解できるような気がした。実際は、死体が鳥によってあちこちにばら撒かれるだけなのだろうが、鳥によって空に運ばれていったというイメージは持てると思えるのだ。
平山がそんなことを考えながらしげしげと鳥葬の穴を見ていると、アツーサがやって来た。
「え!あの段差を登って来たの?」
「はい、あのくらい何でもありません」
「いやぁ、驚いたなぁ、てっきりあそこで諦めるだろうと思っていた」
「いいえ」
平山は、それなら手を貸してあげればよかったと後悔したが、アツーサは何とも思っていないようであった。
「イランにも幽霊っているの?」
「はい、いますよ」
「アツーサは怖くないの?」
「まだ見たことがありません。墓地にいるそうです」
「へぇ、でも、ペルシャ語で話をされても私には分からないから怖くないだろうなぁ」
鳥葬の塔は墓地ではないからか、アツーサはまったく怖がっていなかった。そうしているうちに、日は沈み、辺りがすっかり暗くなって来た。鳥葬の塔からヤズドの町の灯りが綺麗に見えた。
(参考)鳥葬の塔
平山がヤズドから戻って1か月もした頃、岡野邦彦が日本から赴任して来た。平山はイランに来て既に1年という経験を持っていることから、岡野の面倒をみる立場であった。アパート探しや銀行での現金の出し入れ、ショッピングに至るまでいろいろな情報を提供しなければならない。
平山は、週末になって岡野の歓迎パーティをアパートでやることにした。参加者は、岡野以外には5名の仲間であった。本部から来ている調整員の中田氏、平山と一緒に赴任した広井氏、家族で赴任している加藤氏とその奥様である。平山は、スリランカ人の使用人を雇っていた。パーティは、その使用人の用意する料理であった。
日本人の主催するこういうパーティの始まりは早い。平山は、6時に開始というお知らせを流しておいた。そして、日本人参加者は10分と遅れないものとしたものである。平山は、アツーサに5時半に来るように伝えておいた。迎える側の人は、先に来ていないと具合が悪いという理由である。
アツーサは日本人の時間に厳しいということを既に知っているため、ちゃんと5時半に平山のアパートに現れた。アパートに入ると、直ぐにコートとヘジャブを脱いだ。髪は黒髪ではなく、メッシュ入りの明るい茶色に染められている。彼女の衣装はプライベートな集まりのせいで、はっとするほど素敵なものだった。
そして、その10分後に広井氏がやって来た。イラン人の場合、こういうパーティでは2時間くらい遅れるのは何でもなく、定刻に現れる人はまずいない。ましてや定刻よりも前に現れるというのは異常である。広井氏は、迎えに出たアツーサを見て少し驚いたような表情をみせた。
アツーサは日本語が分からないため会話は英語にならざるを得ない。その後、参加者たちは続々とやって来て、6時には全員が揃っていた。平山は、イラン人のアツーサの目には、こういう日本人の行動はとても奇妙に映ることだろうと思った。
禁酒国のイランではあるが、アルコール類が手に入らない訳ではない。ちゃんとブラックマーケットがあって、ビールやウイスキーは買えるのだ。ただし、値段は日本の三倍もするので、高級なウイスキーなどは手が出ないのが実態である。もっとも、高級なウイスキーなどはいつもある訳ではないので、買いたくても買えないし、安物のスコッチで我慢するしかない。
参加者たちは、それぞれに努力してアルコール類を手に入れているらしく、岡野以外はいろいろな酒類を持参していた。食事は7時頃と使用人に言ってあったので、みんなはリビングでくつろいでいた。平山が席につくと岡野が言った。
「平山さん、いろいろお世話になってありがとうございます」
「いえいえ、早くテヘランでの生活に慣れるといいですね」
「はい、あとはアパートの契約だけになりました」
「そう、いい大家さんだったらいいけどね」
「永井さんの引継ぎですから大丈夫だと思います」
「ああ、帰国した永井さんのところね」
平山は自分がイランに赴任したときのことを思い出さずにはいられなかった。雪の降る日の赴任だった。イランに雪が降るなんて事前に調べるまでは想像もできなかったのだ。今は、もう3月である。街から雪は消え、春を待っているところである。
「この時期の赴任というのは珍しいね。もう直ぐノールーズに入るのに」と中田調整員が言った。
「ノールーズって何ですか?」と岡野が訊いた。
「あれ?知らなかったの?イラン暦のお正月休みのことです」
「長い休みなんでしょうか?」
「役所は1週間程度だけど、みんな有給休暇を消化したりして、1か月くらい休暇を取る人が多いですよ」
「3月に入ると、1か月くらいは仕事にならないかも」
ビールを飲みながら、イラン人の習慣や国民性についてそれぞれが思い思いのことを言っている。加藤さんの奥様は、バザールでぼられるということに腹を立てていた。話を聞くと、ぼられたと言っても、それほどの金額ではないのだが、主婦としては気になることのようだった。野菜などの食材は日本の値段の7分の1だから、ほとんど無料に近いと平山は感じていた。だから、普通のショッピングは、使用人に任せているのである。
ただし、日本食材となると話は違う。買うことができるとはいえ、日本で買う値段の3倍から5倍もするのである。ごく普通の3パック入りの納豆が500円、カップヌードルも一個500円もする。こういう買い物は、平山は自分でやり、使用人は日本食材には手をつけないことになっている。
(参考)テヘランの日本食材のお店
(つづく)
(注)こちらはフィクションですから人名など実在するものとは一切関係ありません。
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by eldamapersia
| 2007-10-03 23:00
| 遥かなる遺産 Part1